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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ① 「宮滝遺跡」(吉野町)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

①宮滝遺跡(吉野町)

 

壬申の乱の起点。大海人皇子が移り住んだ吉野宮の跡地

 

吉野町宮滝の集落にある遺跡です。滋賀大津の瀬田唐橋が壬申の乱最終決戦地であるなら、ここは壬申の乱の起点となった地です。と言うのも、時の大津京から遠く離れて、吉野宮に移り住んでいた大海人皇子でしたが、甥の大友皇子の不穏な動きを察知して、挙兵しました。その決断をしたのが、当地だと考えられているのです。

 

宮滝遺跡は、飛鳥に都が置かれた時代、時の斉明天皇が離宮として造営した吉野宮の跡だとみられています。長く吉野宮と吉野離宮がどこにあったのか詳しくわかっていませんでしたが、2018年に宮滝遺跡で行われた発掘調査で大規模な建物跡などが見つかり、ここが吉野宮だと強く印象づけられました。飛鳥時代よりずっと以前、縄文時代や弥生時代の土器なども出土しています。

 

江戸時代の作家・秋里籬島と絵師・竹原春朝斎による『大和名所図会』にも、大海人皇子は描かれています。「浄見原天皇(大海人皇子のこと)吉野の行宮にて琴を弾じたまへば天人影向し曲に応じて舞ひ遊びけり それより袖振山といふ」という文を添えて、「袖振山の故事」が描かれています。

 

その絵の大海人皇子は、桜の花に囲まれた立派な行宮で、悠々と琴を弾いていて、表情もにこやか。戦乱前の緊迫感はまったく感じられません。

 

やがて、壬申の乱に勝利した大海人皇子は、大和(飛鳥)に戻り、天武天皇として即位しました。その妻で、後の持統天皇も吉野宮にたびたび行幸していたことが『日本書紀』に書かれています。皇后になる以前、鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)として大海人皇子と行動を共にした持統天皇にとっても、吉野は特別な場所だったのです。

 

宮滝遺跡から徒歩約4分のところに吉野歴史資料館があります。常設の「吉野宮の成り立ちと移り変わり」「吉野離宮の成り立ち」などの展示からも、壬申の乱について知ることができるでしょう。2022年は壬申の乱から1350年であることを記念して、「特別陳列 いかにして、壬申の乱は語られてきたか」(2022年11月30日まで)が開催されています。

 

宮滝遺跡の解説板が立つ場所から集落内を徒歩約5分、吉野川に架かる「柴橋」の近くにも「史跡 宮滝遺跡」と刻まれた石碑があり、また柴橋から見る風光明媚な吉野川の清流・奇岩も見逃せない眺望です。

 

『大和名所図会』に書かれた「宮滝」の紹介記事はこちらです。

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