• 奈良事典

奈良の城④ 柳生城

剣豪の里・柳生に築かれた柳生氏の居城

【城?屋敷?質実剛健な剣豪の拠点】

 

奈良市北東部、剣豪の里・柳生にかつて城があったことはあまり知られていません。城をどう定義するかによりますが、柳生にあったのは、柳生家がまだ豪族だった時代の本拠地であり、江戸時代になってからの柳生陣屋などです。

 

前者は、南北朝時代にあったとされますが、詳細は不明です。場所は、柳生家代々の菩提を供養する芳徳寺と、柳生新陰流の正木坂道場、その東の山一帯を含む〝山王台〟です。

現在ここに、城らしい城は見当たりませんが、遺構として土塁、堀切、いくつかの郭があるといいます。芳徳寺に至る前に右に折れると、山を切り込んだ堀切があります。草葉が茂る小道は、現在水道施設がある南郭跡に続き、やがて主郭があったスペースに出ます。

 

豪族としての柳生家本拠は、華美や規模を誇示しない質実剛健な存在だったのでしょう。

 

 

【落城と再興】

 

大和(奈良)、山城(京都)、伊賀(三重)に接する要衝の地・柳生で〝事件〟が起きたのは1544年。かねて対立関係にあった筒井氏が大和統一を図って、大軍で攻めてきたのです。柳生の里は抵抗するも、わずか二日で無念の落城。柳生家は、筒井氏に従属することになりました。

 

さらに不遇は続きます。織田信長は柳生家を登用せず、豊臣秀吉の太閤検地では隠し田が発覚し、所領没収の憂き目に遭いました。そんな窮状にあった一族を再び上昇気流に乗せたのが、柳生宗厳(むねよし)・宗矩(むねのり)父子です。

 

芳徳寺の前に「石舟斎塁城址」の碑があります。石舟斎(せっしゅうさい)は宗厳の号です。宗厳は剣術流派の一つ、新陰流を極め、独自に磨きをかけた「柳生新陰流」を創始。それに目をつけた徳川家康の前で剣術を披露したのを機に白羽の矢が立ち、1600年の関ケ原の合戦でも武功を挙げて所領を回復しました。

 

 

【徳川3代将軍・家光との縁】

 

当時すでに70歳を超えていた父宗厳に代わって、子宗矩が徳川将軍家の兵法指南役に就きました。宗炬は大坂の役などで功績を重ね、1636年、柳生藩を興し、1万2千石の大名へと成長しました。

 

宗矩は芳徳寺や、居館として柳生陣屋を築きました。柳生城の主郭があった山王台から国道369号が走る谷を挟んで西にある柳生陣屋跡は現在、史跡公園として整備され、散策や桜の名所として親しまれています。

 

剣術を伝授された3代将軍家光は宗炬を強く信頼し、今際の宗炬を見舞った記録があります。その際、宗炬は1万2千石あまりの所領を将軍家に返上。子ら(三厳[十兵衛]、宗冬ら)に親の七光りを与えず、それぞれの実力に応じた処遇を―との遺志を示したといいます。

 

親子なのにと考えさせられる面もありますが、安易な世襲を断った姿勢に共感する人もいるでしょう。

 

小高い台地に拠点を構えた柳生家。残された史跡や遺構に触れると、剣士たちの息吹がよみがえるようです。

 

 

<アクセス>
バス/奈良交通バス「正木坂」下車、徒歩約10分
車/奈良県庁から国道369号で約40分