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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑭ 乃楽山の戦(奈良市)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑭乃楽山の戦(奈良市)

 

大海人皇子軍の将軍・大伴吹負、敗れる。

 

「乃楽山」は、「ならやま」と読みます。現在の平城山丘陵(平城宮跡の北側から鴻ノ池運動公園、平城・相楽ニュータウンなど京都府木津川市に広がる丘陵帯)とされ、『日本書紀』では「那羅山」とも記されています。

 

飛鳥の戦に敗れた大友皇子朝廷軍は、当然、父祖伝来の旧都・飛鳥を奪還しようと画策します。現在の三重県側から大和に入るルートは大海人皇子軍に抑えられていたため、近江から大和へ入るルートは、京都から南下するルートに限られました。その際、避けて通れないのが、乃楽山でした。

 

それを読んでか、大海人皇子軍の将軍・大伴吹負は軍勢を引き連れて乃楽山に向かい、朝廷軍と戦う準備を進めました。しかし、冷静になると、飛鳥に残した部隊が少なく、守りが弱いのではと心配になりました。

 

そこで、大伴吹負は主力の一部を飛鳥に帰しました。また、本連載「13 高安城・衛我河の戦」で既述した通り、「河内(大阪)から朝廷軍の軍勢が攻めてくる」との情報もあり、吹負は河内方面にも部隊を差し向けました。

 

そうなると、乃楽山に残る軍勢が縮小するのは自明。吹負軍は大野君果安を将とする朝廷軍を迎え撃ちましたが、数の差にも押され、吹負軍は打ち負かされてしまいました。敗走した吹負でしたが、今の宇陀で援軍と合流し、軍勢を立て直し、挽回の機会を図ることになったのです。

 

飛鳥では勝利した大海人皇子軍でしたが、高安城・衛我河と乃楽山では連敗を喫します。戦乱の主導権は朝廷軍が握りかけたように思えましたが…。次の「当麻の戦」が大きな岐路になりました。

 

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑬ 高安城・衛我河の戦(平群町)

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑮ 当麻の戦(葛城市)
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