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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑮ 当麻の戦(葛城市)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑮当麻の戦(葛城市)

 

大海人皇子軍の吹負軍、起死回生の勝利

 

乃楽山の戦に敗れた大海人皇子軍の大伴吹負の部隊は、墨坂へと敗走しました。墨坂は、現在の宇陀市榛原の西部とみられ、吹負の部隊は、そこで東海から進軍してきた味方の置始菟(おきそめのうさぎ)が指揮する約1000人の部隊と合流します。

 

緒戦の飛鳥で勝利した吹負でしたが、高安城・衛我河の戦、乃楽山の戦で連敗を喫して劣勢に立たされていました。しかし、置始菟らの増援軍を得て、態勢を立て直すことができました。

 

そのころ、高安城・衛我河の戦で吹負が差し向けた部隊を破った朝廷軍の将軍壱伎史韓国(いきのふびとからくに)の軍勢は、河内から大和に入ってきていました。これを察知した吹負は、墨坂(宇陀)から当麻(葛城)へと進軍します。

 

当麻(壬申の乱においては「たぎま」と読みます)は二上山を望む一帯で、中将姫と當麻曼荼羅で知られる當麻寺が有名です。地理的には、宇陀や飛鳥からほぼ西へ直進した位置関係にあり、兵力を増強して気勢を上げる吹負軍は一気に当麻へ進み、韓国軍と激突しました。吹負軍は連敗のうっ憤を晴らすかのように勇進し、応戦し、敵を撃退しました。

 

現在の香芝市磯壁からも二上山を望むことができますが、『香芝町史』(1976年)によると、『日本書紀』に出てくる、吹負軍と韓国軍が戦った「葦池」という古戦場が当地にあると記されています。

 

歴史に「もし」は禁物ですが、この当麻の戦が朝廷軍勝利に終わっていたら、少なくとも大和は朝廷軍に抑えられてしまい、壬申の乱の行方は一層混沌としたものになったでしょう。大海人皇子軍の大和方面を任された吹負軍にとって、この当麻の戦は戦況の優勢を取り戻す、まさに起死回生の勝利となったのです。

 

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