• 奈良事典

奈良の城⑥ 布施城

畝状竪堀群に守られた山城の傑作

【難攻不落の山城】

 

大和葛城山から延びる山系の東部中腹。布施城は大和屈指の山城でした。東西約600m・南北約200mとされ、北近江の戦国武将・浅井長政の小谷城と比類されるほどの規模を誇ります。

 

布施城を取り巻く人物相関をたどると、知謀計略がめぐらされていたことに気づきます。まず織田信長方についた松永久秀が、筒井順慶を攻撃。敗戦が重なった順慶は、1565年に筒井城(大和郡山市)から布施城に逃れます。

 

やがて久秀が信長に背いて滅びると、順慶は信長の配下に入り、大和国を任されます。しかし郡山城を除いて、すべての城郭を破壊せよと命じられ、1580年、布施城は破壊されてしまいました。

 

久秀にしろ、順慶にしろ、時の権力者に迎合したり、背反したり。自己に有益な風を読んで離合を繰り返すのは、古今を問わない為政者の習性なのかもしれません。

 

そんな中、順慶への忠誠を貫いたのが布施氏です。久秀軍勢に連敗し、多くの配下に見限られていた順慶を、布施行国(ゆきくに)が布施城に迎え入れ、1565年~1571年の7年間にわたり抗戦。結局、布施城は戦火に屈しませんでした。

 

建造物が現存しない布施城ですが、「戦火に倒れたのではない」という意味では、最後まで難攻不落の城だったのです。

 

 

【想像膨らむ遺構の数々】

 

急峻な山、何本もの竪堀、何重にも築かれた曲輪(くるわ)が難攻不落ぶりを物語る布施城。柱の基礎だったと思われる礎石が残っていますが、布施城が布施氏の居城だったのか、戦時のみの拠点だったのかは諸説あり、結論は出ていません。

 

ふもとの二塚古墳脇から登山ルートがあり、登山口から約40分で北東の虎口(こぐち)に到着。そこから曲輪がひな壇状に主郭まで連続し、息が上がるころに現れる西側の櫓台からの眺望が登山の疲れを和らげてくれます。

 

 

【堅守を支えた構造的工夫】

 

布施城の堅守ぶりを特徴づけているのは、西と南東にある畝状竪堀群(うねじょうたてほりぐん)です。斜面に対して縦方向にV字状の堀を設け、敵の進軍を遮断。攻め込まれやすい、あるいは攻められては困る弱点を埋めるアイデアが駆使されていました。

 

石垣がないという点も構造的な特徴のひとつ。石を用いる築城技術は、織田・豊臣時代以降だといわれます。布施城は築城年不詳ですが、少なくとも織田信長の支配が及ばない時代に造られたと推察されます。

 

大和国を任された順慶の死後、布施氏は秀吉により切腹を命じられ、本家筋は途絶えてしまったといいます。順慶に対して忠義を通してきた布施氏。現在も一途な忠義に共感する人は少なくありません。

 

葛城市歴史博物館には、布施城のジオラマ模型(想像復元)があり、城が健在だった当時のイメージを膨らませることができます。