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藤原不比等公之碑(奈良市)

古代日本でらつ腕と権力をふるった「藤原不比等」の顕彰碑。2020年、没後1300年を迎えました。

比べても等しいものはいない―。元々「史」(ふひと)と記した名を「不比等」としたあたり、比類なき傑物であったことが想像できます。

 

中大兄皇子とともに「大化の改新」で中心的役割を果たした中臣鎌足(後、藤原姓となり、藤原氏の始祖となる)を父とする不比等(659-720)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけて、国政の最高幹部を担った一人です。

 

政界デビュー時は下級官人でしたが、持統天皇のもとで立身し、娘の宮子が文武天皇の妃になったことで、天皇家の外戚として権力基盤を築きました。

 

701年に正三位大納言、708年に正二位、右大臣へと昇進を果たした不比等。大宝律令や養老律令、平城京遷都など、国政の重大事に影響力を発揮しました。

 

皇族に近づいた不比等は、宮子と文武天皇の子、すなわち自らの孫である首皇子を天皇として即位させようと画策します。実際に首皇子が聖武天皇として即位したのは、不比等の死後(724年)でしたが、不比等の悲願が叶ったことになります。

 

不比等の死後も、藤原氏は皇族との結びつきを背景に政治力を強めていきました。不比等の息子・藤原四兄弟の次男・房前(藤原北家)の血縁を引く藤原道長(966-1028)が詠んだ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」の和歌は、藤原氏の隆盛ぶりを物語っています。

 

奈良市にある「興福寺」は藤原氏の氏寺です。元は鎌足・鏡大王夫妻が創建した山階寺(現在の京都市山科区)で、藤原京に移され厩坂寺と称されていたのを、不比等が平城京遷都の際に、現在地に移し、「興福寺」と改めました。

 

興福寺は2019年に、不比等創建の中金堂を約300年ぶりに再建しました。落慶を機に、藤原氏の氏神である春日大社(奈良市)と合同で、藤原不比等没後1300年の御遠忌式を執り行いました。

 

この不比等を顕彰する碑が、奈良市の鴻ノ池運動公園の南端に設けられています。

 

<藤原氏の氏寺「興福寺」の詳細はコチラ>

<藤原不比等邸宅跡に建つ「海龍王寺」の詳細はコチラ>


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