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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑦ 浄見原神社(国栖奏)(吉野町)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑦浄見原神社(国栖奏)(吉野町)

 

大海人皇子の心をアツくした歌舞「国栖奏」。天武天皇が鎮まる崖地の神社

 

吉野川右岸の崖地に延びる参道を進むと、岩地や森に隠されたように神社が建っています。屋根付の舞台(舞殿)が拝殿前に設けられていて、奥の岩場、やや高い位置に見えるのが本殿だろうと思われます。ご祭神は天武天皇。当地の解説看板などに書かれている「浄見原天皇」は、天武天皇を指しています。

 

浄見原神社を紹介する上で、「国栖奏」は忘れてはならないキーワードです。天武天皇が吉野行幸の時に、国栖の里人たちが食べ物やお酒を献じ、歌舞を奏したと伝わり、これが「国栖奏」(奈良県無形民俗文化財)の始まりとか。

 

「国栖奏」は毎年旧正月14日に神社の舞殿で、舞翁、笛翁、鼓翁、歌翁ら12人によって古式ゆかしく行われる歌舞のことで、歌翁が歌う声、舞翁が鳴らす鈴の音が、厳粛な空気に包まれた真冬の境内や吉野川にこだまします。

 

一方、吉野町のサイトにある「吉野に残る伝説」には、『大海人皇子が吉野で挙兵した際に、歌舞を奉じて歓迎したと伝わることから、毎年旧正月14日に「国栖奏」の奉納が行われている。』と記述されています。

 

いずれにせよ、国栖の里人たちは、大海人皇子一行を大友皇子勢力の追手からかくまい、食事を献上したり、歌舞を演じたりして、大海人皇子を応援しました。大海人皇子はこのときに受けた恩を忘れず、壬申の乱の勝利後に天武天皇として即位した後、国栖奏を大嘗祭に奉奏するよう定めたといいます。

 

いくら大海人皇子といえども、壬申の乱前には相当な苦悩や不安もあったはずです。それを癒したのが、吉野の山々や清流、そして国栖の里人たちの心遣いだったのでしょう。さらに歌舞(国栖奏)を鑑賞し、「この戦いに負けられない」と自らを大いに奮い立たせたのではないかと想像できます。小さな社ですが、大海人皇子にとっては忘れがたい恩を感じた場所だったと言えます。

 

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